浄見原神社国栖奏

 

 

浄見原神社(きよみがはらじんじゃ)は、奈良県吉野郡吉野町南国栖の吉野川断崖に位置する神社です。

 

浄見原神社の歴史

 

 

この神社は天武天皇を祀る神社で奈良県無形文化財に指定されている「国栖奏」(くずそう)で知られています。

 

しかし、起源が明確ではありません。

 

「吉野旧事記」によると寿永年間(1182年~1184年)頃に宮中の大嘗祭・七設会などで奉納された国栖奏(くずそう)や国栖(くず)の人の参内が中止になり、第40代天武天皇(大海人皇子)にゆかりが深い天皇淵に造営されたのが起源といわれています。

 

その際浄見原神社で国栖奏の奉納もこの時より始まったといわれています。

 

「国栖奏」については、「日本書記」によると288年(応神天皇19年)に第15 代・応神天皇が吉野の宮(現在の宮滝)に行幸した際、一夜酒と土毛(くにつもの)を献じ、歌舞を見せたのがその起源とされています。

 

なお浄見原神社がある国栖では第38代天智天皇の弟大海人皇子が天智天皇の皇子・大友皇子と戦った672年(天武天皇元年)に、壬申の乱の際追われた大海人皇子を匿い、一夜酒や腹赤魚(うぐい)を献じ、国栖奏でもてなしたともいわれています。

 

アクセス

 

近鉄吉野線「大和上市」駅から車で約30分ほどの場所にあり、国道169号線を通ってからさらに国道370号線へ、とかなりわかりづらい場所にあります。

 

車がギリギリ通れる道の後は、美しい吉野川に沿って5分ほど歩きます。

 

このあたりの吉野川は、天皇淵と呼ばれており緑が深いところです。

 

応神天皇の時代から奉納される国栖奏とは

 

 

吉野という土地(特に宮滝)は、天武天皇・持統天皇の御代から聖なる場所として扱われてきました。

 

壬申の乱でも吉野を拠点として挙兵していることからこの地域の重要性がわかります。

 

浄見原神社の境内にあった案内書には、吉野の歴史が古事記・日本書記の時代までさかのぼって記載されていましたので、それを記載しておきます。

 

「吉野は古く、古事記・日本書記の神代編にその名を現します。古代の吉野は今の吉野山を指していたのではなく、吉野川沿岸の地域を指していました。

 

古事記・日本書記に書かれていることがそのまま歴史的事実とは言えませんが、記述に伝える模様を裏付けるように、縄文時代の土器や、そのころの生活状態を推定させる狩猟の道具がこの付近からも発掘されています。

 

記紀には、「神武天皇がこのあたりへさしかかると、尾のある人が岩を押し分けて出てきたので、お前はだれか?と尋ねると、いま天津神の御子が来られると聞いたので、お迎えに参りました。と答えました。これが吉野国栖の祖である」という記載があり、古い吉野の先住者の様子を伝えています。」とあります。

 

この「尾」がどのようなものを表現していたのかわかりませんが、山深い土地に暮らす未開の民族というニュアンスが込められていたと思われます。

 

その後、応神天皇に奉納した歌舞が今に伝わる「国栖奏」の原型になったとされ、この土地に潜んでいた大海人皇子の前でも報じられたとされています。

 

国栖奏とは、神前に栗・一夜酒・ウグイ・赤蛙などの珍味を供え、精進潔斎した筋目といわれる家筋の男性12名(舞翁4人・鼓翁1人・歌翁5人)が歌舞を奉納する儀式です。

 

謡曲「国栖」と国栖奏

 

 

謡曲「国栖」は、浄見原天皇が叛乱の為に吉野に遷幸あそばされたとき、老人夫婦がねぜりと国栖魚をお供えし、やがて追手の敵が襲ってくると、天皇を船にお隠しして、難をお救い申し上げた。

 

そして、御慰めの為に天女が現れて楽を奉納し、蔵王権現が現れて御味方申し上げ、かくて余は太平になったという曲である。

 

国栖奏は12人の翁による典雅な舞楽で、国栖人は壬申の乱平定に功績があったとして天武天皇の殊遇を賜り、大嘗祭に奉納するほか、毎年元旦には宮中に召されて歌舞を奉せしめられた。

 

以上、国栖の歴史を書いてきましたが、吉野に立ち寄る機会があれば立ち寄ってみてください。